日蓮宗 大聖寺聖徒団 兵庫県明石市上ノ丸1丁目18-18 TEL:078-912-5929/FAX:078-917-4804
   
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法華経と申すお経は身心の諸病の良薬なり 日蓮聖人のおことば
 


目次
不思議なお守り
倶生霊神符のまもり
九識霊断法
常不軽菩薩の尊像
三國山大聖寺建立のいわれ
宮沢賢治の遺書と遺言
明石川崎重工業と大聖寺
住職訓話
お寺案内
大聖寺
宗教法人 大聖寺 聖徒団
兵庫県明石市上ノ丸1丁目
18-18
TEL:078-912-5929
FAX:078-917-4804
代表者:猪俣 義康
  明石川崎重工業と大聖寺
三國山大聖寺の歴史

大聖寺は明治まで、揖保郡室津というところにありました。

室津というのは姫路の西にあり、明石同様に天平年間に朝廷により播磨五泊に制定される古い港町です。明治維新までは参勤交代の寄港として重要な場所であり、大変栄えておりました。

室町時代、その室津の港に寄港した大覚大僧正は、海難被害者の慰霊と祈願のために「法華堂」を建立し、それが基盤となり岡山県大覚寺より来た開山日恵上人が文安3年(1446)10月、
寺として創立したのです。
名前の由来は、開山の師範である京都妙覚寺九世大聖院日延上人の院号にちなみ「大聖寺」となったのです。

時は移って明治時代。
神戸開港と参勤交代廃止によって室津の港は寂れていきます。
同時に室津の町の人々も生活のために土地を離れていってしまいました。
それにともなって大聖寺も衰退をはじめます。

明治40年10月20日。
明石在住の財閥・三國茂三郎氏の発願(発願の仔細はこちら)により、
兵庫県知事服部一三氏に「移轉寺御願」が提出されました。

同時に、同じ末寺である岡山県覺永寺と合併させ、日宣上人二十世住職に迎える。
移転時に、田圃を八反四畝四歩・地價四百五円三銭。三國氏から寄付があり、いまでは考えられない財産持ちのお寺になり、名前も「三國山大聖寺」と改めて、第二の出発が始まりました。
ところが時代とは非情なものである。太平洋戦争後、財閥解体が始まり、その風をまともに受けた三國氏と共に再び衰退が始まったのです。

昭和31年4月。
二十一世日成上人の時に日蓮宗から離れ、単立寺院となり「三国寺」と称するようになる。寺務と同時に住職は福利厚生に力を注いでいたが、住職の死と共に再び無住の寺となってしまいました。

昭和47年5月。
身延山勤務・山梨源立寺住職であった日康上人が、二十二世住職に就任。
日蓮宗に戻し「三國山大聖寺」に戻る。
太平洋戦争明石市被爆者の慰霊に力を入れ、毎日のように町に出て太鼓を打鳴し行脚。
大勢の協力を得て、昭和49年に十一面観音像を安置した慰霊塔を建立。

平成7年1月17日。
阪神大震災で半壊。
新住職に就任した二十三世日脱上人と、檀信徒が力を合わせて復興。
翌8年3月3日。
奇しくも三國・3月・3日という予期せぬ語呂合せのような日に、近畿の日蓮宗寺院の一番最初に復興式と、震災のために延期されていた新住職入寺式が行われたのでありました。



第二次世界大戦と明石大聖寺
大戦中、明石には「飛燕」という名の戦闘機を作っていた川崎航空機株式会社(現在の川崎重工業株式会社)の工場があり、それは「ゼロ戦」と並び称される日本空軍の戦闘機ものでした。その戦闘機を作るために関西一円から「学徒動員」と呼ばれる少年少女が集められていて、21世日成上人は彼らを訓戒するという縁がありました。

明石はその工場があったために、大阪より神戸より早く空襲を受け、従業員をはじめ大勢の学徒が亡くなりました。川崎航空は住職との縁が元で当時「三国寺」と称していた大聖寺の境内に慰霊碑を建て、その内側には明石市が建てた慰霊碑があるという、珍しい二重墓があります。

昭和49年6月9日。22世日康上人は、その後何度も空襲にあって無縁仏になった霊も含めての供養と、世界平和を願って慰霊塔を建てようと発願しました。明石の町を団扇太鼓を打ちならし歩いてその霊を慰め、川崎重工と明石の一般市民と壇信徒が一致協力して、高さ5.5メートルの「太平洋戦争明石市被爆犠牲者慰霊塔」が完成したのです。

この塔の上に安置されているのが、青銅製の十一面観音像です。

十一面観音は、頭上に11の小面を持つ観音様で、人々の悲しみ・苦しみ・悩みなどを救う現世利益の本尊として親しまれています。頭の周りに菩薩面が10体あり、前3面は慈悲の相。左3面は瞋怒(しんぬ)の相。左3面は白牙上出相。後ろの1面は暴悪大笑相といい、頂上の仏面は仏会を現しております。

左手には蓮の華をさした壺を持ち、右手には日蓮宗の数珠を持つという珍しい像であります。
(普通は、てのひらを前面に向けた印相をとっている)

この慰霊塔は震災でもびくともせず、建設当時観音像を制作した所は「震度5位でも大丈夫ですから、上に乗せておくだけで良いですよ」といわれましたが、建設会社は「もし何かがあったら大変だ」ということで、しっかりと太いボルトで観音様を安置しました。そのおかげで観音様は倒れることもなくすみました。

建立しようと協力した人の心と、作る人の心と、拝む人の心がこの慰霊塔を震災から護ってくれたのでしょう。

毎年、1月19日には川崎重工関係者の慰霊祭が行われ、午後1時56分の空襲の時間には1分間の黙祷が捧げられ、6月9日前後の日曜日に「慰霊塔供養祭」が行われております。

戦争の悲惨さ、戦争を憎む心を、後の時代まで語り継ぐことが大聖寺の使命だと思っております。


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