大聖寺は明治まで、揖保郡室津というところにありました。
室津というのは姫路の西にあり、明石同様に天平年間に朝廷により播磨五泊に制定される古い港町です。明治維新までは参勤交代の寄港として重要な場所であり、大変栄えておりました。
室町時代、その室津の港に寄港した大覚大僧正は、海難被害者の慰霊と祈願のために「法華堂」を建立し、それが基盤となり岡山県大覚寺より来た開山日恵上人が文安3年(1446)10月、
寺として創立したのです。
名前の由来は、開山の師範である京都妙覚寺九世大聖院日延上人の院号にちなみ「大聖寺」となったのです。
時は移って明治時代。
神戸開港と参勤交代廃止によって室津の港は寂れていきます。
同時に室津の町の人々も生活のために土地を離れていってしまいました。
それにともなって大聖寺も衰退をはじめます。
明治40年10月20日。
明石在住の財閥・三國茂三郎氏の発願(発願の仔細はこちら)により、
兵庫県知事服部一三氏に「移轉寺御願」が提出されました。
同時に、同じ末寺である岡山県覺永寺と合併させ、日宣上人を二十世住職に迎える。
移転時に、田圃を八反四畝四歩・地價四百五円三銭。三國氏から寄付があり、いまでは考えられない財産持ちのお寺になり、名前も「三國山大聖寺」と改めて、第二の出発が始まりました。
ところが時代とは非情なものである。太平洋戦争後、財閥解体が始まり、その風をまともに受けた三國氏と共に再び衰退が始まったのです。
昭和31年4月。
二十一世日成上人の時に日蓮宗から離れ、単立寺院となり「三国寺」と称するようになる。寺務と同時に住職は福利厚生に力を注いでいたが、住職の死と共に再び無住の寺となってしまいました。
昭和47年5月。
身延山勤務・山梨源立寺住職であった日康上人が、二十二世住職に就任。
日蓮宗に戻し「三國山大聖寺」に戻る。
太平洋戦争明石市被爆者の慰霊に力を入れ、毎日のように町に出て太鼓を打鳴し行脚。
大勢の協力を得て、昭和49年に十一面観音像を安置した慰霊塔を建立。
平成7年1月17日。
阪神大震災で半壊。
新住職に就任した二十三世日脱上人と、檀信徒が力を合わせて復興。
翌8年3月3日。
奇しくも三國・3月・3日という予期せぬ語呂合せのような日に、近畿の日蓮宗寺院の一番最初に復興式と、震災のために延期されていた新住職入寺式が行われたのでありました。
|