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宗教法人 大聖寺 聖徒団
兵庫県明石市上ノ丸1丁目
18-18
TEL:078-912-5929
FAX:078-917-4804
代表者:猪俣 義康 |
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宮沢賢治の臨終は昭和八年の九月二十一日。月日は同じですが、この遺書が書かれたのは昭和六年の九月二十一日、上京中のもので亡くなる二年前の遺書ということになります。
いつもそうですが、賢治忌を迎えるとき、真っ先に浮かぶのがこの遺書と遺言です。
皆さんもどうか考えてみて下さい。宮沢賢治はどんな気持ちでこの遺書を書いたのでしょう。
法華経への絶対なる信仰は決してゆらいでいませんが、遠くふるさとを離れて病に倒れ、父母に先立つ不幸が目前にあったのです。
父母は熱心な念仏の信仰者です。「真宗の家に生まれながら何を好き好んで法華経に、この親不孝者!」という厳正な父の姿が大きく浮かんだでありましょう。そしてその父のそばで、いつもオロオロしながら自分をかばってくれた優しい母の姿も・・・。
「ああ自分は何という親不孝な身勝手な人間であったのか。尊いお心に背いてしまった忘恩には、法華経信仰の生々世々にわたるご報恩でお返しする以外に道はない。ご信仰ということでなく、私の名を呼んで下さるかわりにお題目で私を呼び出して下さい。そのお題目で絶えずお答へ申し上げおわびをいたします!」
まさに涙なくしてこの遺書が読めるでしょうか。
ご覧の通り、この遺書には年の記述がありません。何故昭和六年と解いたのか。それは、昭和六年の九月二十日に上京の際、発熱して倒れ泊まった八幡館の便箋に書かれたからでした。
翌二十一日、いよいよ死が迫ったと覚悟を決めて遺書を書いた宮沢賢治ですが、これぞ法華経のご利生というべきでしょうか。やや小康を取り戻せたのでした。
九月二十七日、彼は花巻の実家に電話を入れます。驚いたお父さんは急ぎ、東京の知人に連絡を取り、同夜二等寝台で花巻に帰ることになりました。
こうして、病床生活を余儀なくされ、遂に昭和八年の九月二十一日、三十八歳の生涯を終えることになります。
臨終の前日、すなわち九月二十日、宮沢賢治は絶詠二首を遺します。
「方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭三日はれわたる」
「病(いたつき)の ゆえにも朽ちんいのちなり みのりに棄でばうれしからまし」
農民のために一生を捧げ、法華経の理想浄土顕現に挺身した宮沢賢治の前に、大自然も感応して十方の豊作、黄金の穂波を見せてくれたのでした。宮沢賢治はどんなにかうれしかったでありましょう。
「病気で死んでゆくいのちが、この素晴らしいみのりの豊年に祝福され、しかもこのみのりはまさに妙法蓮華経のみ法でもある。ああ何という幸福よ」と感涙にむせぶ宮沢賢治の顔が見えるようではありませんか。
かくてやすらかに九月二十一日を迎えます。
「どうか法華経全品一千部を刷って知己の方にお送り下さい。その経典の最後のところに『私の全生涯の仕事は、この法華経(経典)をあなたにお届けして、あなたがこの中にある仏意に触れて、無上道に入られんことをお願いするの外ありません』と書いていただきとうございます」
宮沢賢治の遺言です。お父さんはこれをしっかり書き取りますが、死ぬというこの時に至ってなお、法華経の宣布を果たさんとする我が子の姿を見て、どんな胸中であったでしょう。「我がままばかりで申し訳ありませんでした」とわびるだろうと思ったかもしれません。全く逆の言葉でした。しかし、さすがに宮沢賢治のお父さんです。「よし、わかった。必ずそうしてやる。安心しろ、お前の法華経信仰は本物だったんだな。おまえはえらかったぞ」この声に、宮沢賢治涙のまま、「最後お父さんにほめられました」とお礼を申し上げ、至心合掌、唱題三昧、お母さんからいただいたオキシフルの綿で手の届く限り身を浄めての臨終でした。時に午後一時三十分。行年三十八歳。臨終正念、まさに妙法蓮華経の生涯でした。
遺書は滅後半年に、雨ニモマケズ手帳と共に発見されますが、お父さんもお母さんも更なる涙に悲痛を深めたでありましょう。
宮沢賢治の法号は「眞金院三不日賢善男子(居士)」国柱会からの授与ですが、後、宮沢賢治十七回忌を期して、ご両親が浄土真宗から日蓮宗に改宗いたします。昭和二十六年です。一心を捧げて両親、ご先祖を法華経に導入したのです。<上品の孝養>これにすぎるものはないでありましょう。
拝するに、遺書の願いを基に、お母さんが「我々もやがて霊界に帰りますが、念仏のお浄土では賢治に会えません。賢治の居るお題目の霊山浄土へ帰りましょう」とお父さんを説得されたのではないでしょうか。いづれにしても本当に感動させられます。
竹内泰存上人 記 |
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